彼女がいつも腕にしている赤い細身のベルトの腕時計が好きだ。
色といい、シンプルなデザインといい、彼女にとてもあっていると思った。
「土方さん、早くしなせェ。パン買い損ねちまう」 体育館での授業はチャイムと共に終わりを告げ、各自持っていたボールを片付けて解散となった。自分もボールを戻そうと体育倉庫の中に入ったが、見ると溜息しか出てこない。 「総悟お前先行っとけ。俺、これ片付けてからにする」 「んなのほっときゃいいのに。じゃ、先に行きやーす」 総悟の声を背中で聞きながらもう一度倉庫を見渡す。 ボールがあちこちに散らばっている。それは明らかにたった今授業で使っていたボールであり、所定のカゴに入っているものの方が少ないくらいだ。カゴに投げ入れようとして失敗したけど放っておいた、というところだろう。たまたま一番最後にこの場所に入ってしまった自分が運が悪かったと納得することにして、ボールをひとつずつカゴに入れ始めた。 「ん?」 最後の一個を拾おうとしたときだった。目の端で何かが曇りガラスからの光を受けてキラリと光った。拾ったボールをカゴに投げ入れてから、跳び箱や平均台をまたぎながらその光の方へと体をすすめる。 それは腕時計だった。シンプルな文字盤に深みのある赤い細身のベルトのそれは以前に自分が何度も目にした時計だ。実際にこうして持って見るのは初めてだが、間違いないだろう。と同時にまだこの時計を彼女がしていたのかと思うと妙に嬉しくなった。 高2で同じクラスになった。静かだが、自分の考えはしっかり持っている。そんな印象だった。たまに何かの用で話すと嫌味なくケラケラとよく笑い、その笑い声が結構好きだった。 そのが席替えで俺の斜め前になったときのことだ。 ノートを書くときはいつも軽く腕まくりをした。そしてその時に常に左手にあったのがこの赤い時計だ。胸辺りまであるだろう長い髪を耳にかけ、赤い時計をつけた左手をそえながらノートに字を書く。それがとても絵になる動作に見えて、俺はしばしば彼女を盗み見ていた。 彼女は今は確か2つ隣のクラスにいたはずだ。あとでこの時計を届けよう。 倉庫の中をぐるりと見回す。ボールは全て指定の場所に入っているし何も文句はないだろう。 時計をポケットに入れて、久しぶりに彼女と顔を合わせた時のことを考えながら体育館を後にした。 「、」 思わず呼び止めるとは驚いたようにこちらを振り返った。 タイミングというのはわからない。着替え終わって教室に戻ろうとしたら、目の前をが一人で歩いていたのだから。 振り返ったときに揺れた髪は以前と変わらずに胸辺りまで真っ直ぐに伸びていた。 「久しぶりだね、土方君」 「ああ」 「元気?」 「まあな。お前は?」 足を止めて俺が横に並ぶのを待ったは元気だよ、と言って再び歩き出した。俺もそれに合わせて歩く。一人で歩くときより少しゆっくりだ。 「これ、のじゃないか?」 学ランのポケットから先ほど見つけた腕時計を取り出すとは驚いたような声をあげた。 「うわ!そう、これ私の」 俺から受けとると嬉しそうに自分の前に掲げて文字盤を見る。 「どこ探しても見つからなくてさ、もう諦めようかと思ってたんだ。どこにあったの?」 それを左腕につけ、軽く腕まくりをするはやはりいつかと変わらないままだ。 「体育倉庫の中に落ちてたぞ」 「そっか、マット片付けるときに落としたのかな」 「案外ドジだな」 「確かに」 そう言ってはケラケラと笑った。以前と同じ、俺の好きな笑い方だった。 「死ねよ土方コノヤロー」 靴を履き替えていた総悟は後ろから大挙してやってくる1年だか2年の女子を見て、捨て台詞と共に逃げるように去っていった。 走ってきた奴らは半分は俺の前で止まり、残り半分は総悟を追いかけて校庭に飛び出していった。お前等上履きのままじゃねーかと言いかけたが、どうせ届きはしないだろう。 総悟があいつ等に捕まってもみくちゃにされるといい。抱えきれないほどのチョコを貰って恥ずかしい思いをしながら帰ればいい。総悟はあいつ等に任せることにして、横を振り向くと集団でコソコソとする女子達が目に入った。お前等ここまで来て、しかも群がってきたのにまだ照れる気かよ。 「土方先輩!よければチョコ受け取ってください!!」 一人が差し出すと、火がついたように他のやつらも次々に俺の目の前に様々な色の箱や袋を差し出してきた。 「あぁ・・・」 とりあえず、目の前にあるものを全て受け取ると満足した奴らは全員でキャーキャー言いながら風のように去っていった。 「・・・」 幾つあるんだ、これ。 鞄の中はとっくに埋まっている。入りきらないから教科書もノートも全部机の中に入れてきたのに。それでも鞄ははち切れそうに一杯だ。 「あはは」 両手を塞いだまま途方に暮れていると、隣の下駄箱から聞き覚えのある 笑い声が聞こえてきた。 「・・・か?」 「さすが土方君。もてもてじゃん」 「嬉かねーよ」 両手に抱えきれないほどの包み紙を持て余す俺を見たはもう一度可笑しそうに笑った。 「それ、全部持って帰るんでしょ?」 「・・・捨ててくわけにもいかねーだろ」 ふーんとそれを見たは自分の鞄の中から一枚の袋を取り出した。 「これ使う?」 小さく折りたためるようになっている手提げだ。淡いピンクにウサギ柄。・・・まあ、これを全て抱えたまま帰るよりは幾分かましだろう。 「ああ」 返事をすると革靴に履き替えたは俺の前で袋の口を開いて持っているものを中に入れるように促した。バラバラと入れるとその袋もやはり鞄と同じようにはち切れんばかりに膨れ上がった。 「よし」 満足したように頷いて袋を俺に渡す。・・・淡いピンクにウサギ柄。全てを両手に抱えながら歩く総悟とどちらが恥ずかしいだろうか。総悟であると信じたいところだ。 「土方君」 「ん?」 は改まったように俺の名前を呼んで、こちらにきちりと向き合った。その真っ直ぐな眼に見られると、不思議とそこから視線が外せなくなる。 「ハッピーバレンタイン」 どこからともなく手品のようにピンクのリボンが巻かれた白い箱を取り出しては俺の前に差し出した。 「・・・お、おう」 予想していなかった出来事に呆気に取られた俺を見てはまたケラケラと嫌味なく笑う。 「驚いた?」 「まあ、な」 「この間の時計のお礼」 ほら、と腕まくりして俺の前に時計を掲げて見せる。細く白い腕に嵌められた時計は持ち主の元でキラリと光ったように見えた。 「そうか。ありがとな」 包みを受け取ろうと手を伸ばすとはひょいとそれを俺の手から逃すようにしてどかした。 「?」 「が、カモフラージュの本命チョコ」 「・・・は?」 俺をよそにはへへへと悪戯でもしているかのように笑った。思考回路が閉ざされた頭の隅で、こんな笑い方もできるのかと妙に感心している自分がいる。 「更に驚いたでしょ」 「・・・何が言いたいんだ?」 「だから、これはこの間の時計のお礼、っていうのがカモフラージュの本命チョコなわけだよ」 先ほど言ったのと同じことを言われても俺の頭が理解しようとしない。ただ、が手に持つチョコがこの鞄や手提げ袋に入っているチョコとは違うということはなんとなくわかった。 は説明しよう!とかバカのように明るく言うと細かく解説を始めた。 「バレンタインに土方君に渡そうかすごく迷ってたんだ。クラスももう違うわけだし」 「あぁ」 「するとなんと、偶然にも土方君が私の腕時計を届けてくれた。そして気づいたわけだ」 「何にだ?」 「どうして土方君はこの時計が私のだってわかったの?」 どうしてあの時計がのだとわかったのか。 見ていたからだ。腕まくりをしながらノートを書くの姿を。 俺にとってはごく当たり前の理由だが、それがこの話の鍵らしい。 そして俺も気づいた。 どうしてそんなに眼に焼きつくほどの姿を見ていた? それと同時に、の質問への答えが告白まがいなものになることも。 「・・・まるで誘導尋問だな」 「はは。それでね、もしかしたら本命チョコ渡してもいけるんじゃないか、という結論にたどり着いたわけよ」 「間違っちゃいねーな」 「でしょ?」 もう一度、は俺の前に包みを差し出した。 「本命チョコです。受け取ってくれる?」 「おう。しっかり受け取ってやる」 今度はしっかりとそれを手に持つ。と同時にはへにゃへにゃとその場に座り込んでしまった。 「・・・?」 「ふ、ふられなくてよかった・・・」 さっきまでの威勢はどこへいったのか。溜息をついて情けない顔でうな垂れる。 「・・・バカかお前。自分で本命チョコ渡してもいける、とか言ってたじゃねーか」 「・・・やっぱいざとなると不安で・・・」 「・・・バカだな」 呆れたような俺を見ては弱弱しく笑う。もう一度バカと言いたくなったが、それも俺のことをあれこれ考えたからだと思うとそうも言えなくなった。 「ほら、立て。帰るぞ」 差し出した手につかまってよろよろと立ち上がったは俺の腕におもいっきり縋ってきた。 「よろよろする・・・」 「んじゃあしっかり掴まっとけ」 「わかった」 そのまま歩き始めるとは俺の直ぐ横で楽しそうにあの笑い声をあげた。 「ハッピーバレンタイン、土方君。これからもよろしくね」 少し捲くれた腕から覗く赤い時計が俺達の間できらりと光った。 |